2011-02-04

この4年間、表象不能イメージの代替的な可視化を模索していた。
どうすれば「その次元」に接近出来るのか探求し、「どうやって描くのか」という問題が常に重要だった。

既に絵画が「時代遅れ」といわれてから何十年と経とうとしている現代、絵画という表現方法で作品を提示する者は殆ど居なくなりつつある。
私は絶望を味わい、キャンバスに向かう事さえナンセンスに思えた。

それでも今年に入って、またキャンバスと向き合っている。
試行錯誤を繰り返してきたささやかな技法を用いた、何処にも着地点のない、いつもどうりの絵画という草臥れた物質。
(その草臥れた物質は、いつも私の心を癒してくれる)

私にとって「作品の強さ」とは、大きさや手法に依存しなく、「今この瞬間において開かれたイメージ」を体現していること。
(イメージを解放していくには「強さ」が必要だが、「強さ」が作品の目的になってはいけない)

「芸術は希望の最高の形式である」とはゲルハルト・リヒターの言葉だったろうか。

絶望は人を間違った方向へ陥れがちだが、焦ることはない。
時間はいつもゆっくりと進んでいる。

写真を撮る行為

人が〈なにか〉を見たとき、五感や感情も含めて、一つのブロックを形成し記憶される。それは、瞬きと瞬きの間に1ブロックを形成するともいわれる。(瞬きは意識と直結している)

見たものを見たままに写真に撮ることは不可能だ。
対象は目の前にあるものとは限らない。対象は無意識に変換される。
偶然変換される対象を通してイメージを発見し、ファインダーのイメージと重なる。

コンポジションは無意識のうちに決められる。考えてはいけない。
脳がイメージを記憶するように対象を見て、そのように記録する。
レオナルド・ダ・ヴィンチが街を徘徊し、人々の表情を見てデッサンするように記録する。

対象は自分の感情の深奥に触れるもの。表象し得ない〈なにか〉。
心の最も深い階層で紡ぎ上げている”美”の一かけら。
それらの対象から不純物を取り除く作業のように「見る」。
そうすればコンポジションは考えるまでもなく、何処かへ向かうプロセスとしての写真が出来上がる。
私は日常の中で、写真を撮る行為を通して、合目的性を提示する。

変身

遠い昔からこのキーワードは人間の永遠のテーマではないだろうか。

人間に角が生えたり、翼が生えたりする訳ではない。

人間はどのような時に変身するのだろうか。

決して楽しいときではなさそうだ。
少なくとも私はそう思う。

どちらかというと、死にたいくらい辛いとき、泣きたいくらい悲しいときに、
人間は変身の可能性が生まれるのではないかと思う。
(だからそんなときに死ぬにはもったいない)

どん底まで落ちたとき、人間は自分と向き合う。
過酷な状況に置かれたとき、人間は変身する。

できれば、そのような状況に遭遇したくはないのは当然だ。
そのために自分を守るのも当然だ。

それでも時として、過酷な状況は巡ってくる。

だが、忘れてはいけない。

そんな時こそ、人間は変身できる。

正しい人であれば、正しい変身を遂げるだろう。
間違った人であれば、間違った変身を犯してしまう。

その答えは、変身後の気分によって分かるはずだ。

人間が正直でなければならない理由の一つが、ここにある。

PRESENCE #3

アートの世界でも<幻視>というキーワードはよく出てくるが、実際の幻視とは何の関係もなさそうな作品が多いのも事実だ。
幻視を経験したこともないような者が闇雲に絵を描いて、『○○幻視』というタイトルを付けたところで、嘘は暴かれる。
幻視者から見れば、それは一目瞭然であり、まったく観る価値もない。

幻視の映像には、幻視者にしか共感できない共通性があるのではないかと私は思う。
(見ることに敏感な人であれば共感できる可能性はある)
私のいう幻視は「何となくその様に見える」という残像のような影ではなく、色も形も構図も奥行きも、すべてハッキリと見える流動的な幻覚映像のことである。

何も幻視者が特別優れていると言っているわけではない。
実際、幻視は人間が生きていく上で必要のないものとして、脳の記憶にすら残らないのである。
私が幻視にこだわって作品を制作し続けるのは、<幻視力>の持つ可能性を信じているからである。

幻視よりも<幻視力>が重要なのだ。
つまり、脳がある状態を維持し、超越した審美眼で無意識的に視ることができる能力。

私は無意識の重要性を信じる。

無意識に身を任せ、無からの反動の波に乗り、超越した自己に接近する。
(自らの中の差異と向き合う)
秩序を通過し、生命力から生まれる正しい変容の振る舞いを待つ。

それら一連の動きを、朧げな記憶を頼りに具現化し、超越的自己による更なる変容を待つ。
そして、とてつもない”美”の存在を発見し、希望と絶望を同時に味わう。
私は、灰になった燃えカスを握りしめ、消える。

最終的に、私が描くのではない。

”それ”が描く。

PRESENCE #2

「それ」は常に、再現することでしか表現できない。
そもそも完全な再現すら不可能に近い。
芸術家は「再現」の代替品を創り、代替品のヴァリエーションを創る。
そこには決して満たされることのない「想い」だけが美的に表象される。
鑑賞者はその「想い」を自己流に、あるいは客観的に共感するだろう。

否、再現が完成されたとしても、満たされることはないだろう。
それは完成されたときから形骸化され、運が良ければ保存される。

否、そもそも、芸術は別のところに在る。
「それ」はマイケル・ジャクソンのパフォーマンスのように観衆を熱狂させ、
モーツァルトの音楽のように、心地よく涙を誘うように、
人々の心の中に、何の意図もなく、高速で浸透するだろう。
時代に関係なく、人間にはそのような感動が必要だ。

”「無」からの反動により可視的になる”
”接近すると同時に同化し、「そのもの」となる”

PRESENCE

愚劣な自己が再現したイメージは、脳内で再構築され、
そのような自己は卑下させられ、
ほんの微かな残像(それは希望の光)のみを残し、
記憶から抹消される。
残骸すら手に取ることが出来ずに、そのような自己の苦悩は始まる。

認識するためには理性が必要だが、
「それ」はあまりにも理性的とはいえない。

ある種の覚醒状態におこる、ある種の皮質的調和。
電気生理学的に調和のとれたパターン。
三人称的視点でのみアクセスできる体性感覚的イメージ。
そうしたイリュージョンによってのみ可能なイメージ。

「それ」以外のイメージでは触れることが出来ない。

現実の再発見と芸術欲動

「現実の再発見(再構築)」
それは本能的に理想郷を創造する”欲動”のようなものよりも、
「今この瞬間の幸福」を実感する”確信”に近い。
その特別な”感情”が必要なのだ。(幸福と美意識との関係性)
そして表層的な現実は心の中で現前として再構築される。
「理想郷」とは完成度の高い社会である。
そのような社会を構築出来るのは、やはりそのような「特別な感情」を持った指導者たちである。
知力と財力だけでは成し得ない、人類にとって最も必要な能力。
天才は他者に与えてこそ天才なのだ。
芸術のための芸術ではない。
まるで歴史と芸術との関係性が逆転してしまっているかのようだ。
芸術は「特別な感情」という人類の能力の為にある。

美意識

以前はよくその言葉で物事を考えていた。

だが最近はどうもその言葉に魅力を感じない。

アートは装飾に収まってはならないし、

”美”だけを求めてはいけないと思う。

美は追うものではなく、突然心の中に現前するものであると思う。

”美”という言葉でいえば、アーティストの糞と、

デュシャンの便器には決定的な違いがある。

アーティストの糞はただの糞であって、それ以上のものではないが、

デュシャンの便器は明らかに別の次元を表現している。

(単にデザインの問題ではない)

それは美意識というよりも、変容の形式であり、

極めて自然な営みだ。

そしてそれが全く新しいものとして認識される

可能性を持つことに重要性がある。

私が言いたいのは、

議論の脱線はゆるされても、レールを脱線することは赦されない、

ということである。

そのレールはいつでもそこに存在していて、

”それ”は常にそのレール上を走っている。

そしてそのレールは”そこ”に存在しているが、

”ここ”には無い。

アンフォルメル

ゲシュタルトの絵画、あるいは絵画のゲシュタルト。

表現はすべて代替行為に他ならない。

マトリクス、あるいはニューラルパターン。

アポトーシスのゲシュタルト。

断絶の形式(秩序)。

生きなければならない。

絵画にとって重要なのはメタモルフォーシスの保存。

制作ではない。

「飛ばす」のではなく「描写しない」という心構えである。

その方向で発展の希望が”まだ”残っているかもしれない。

だが将来的には完全な終焉を迎えるだろう。

ヒトの解明とともに絵画は目を閉じる。

なぜモーツァルトにはできたのか

モーツァルトは脳内で意識的に音楽を鳴らすことが出来たのではないだろうか。

それは時間的な物語を形成する「夢」のメカニズムと関係している。

人間に限らず、恒温動物は「夢」を見る。
夢を見ているあいだ、様々な音を聞き、見たことも無いような映像を目にする。
そのような経験は誰しもが持っているだろう。
記憶のメカニズムと関係している能力である。
(脳は必要なイメージを効率よく記憶し、曖昧な部分を独自に修正する)

睡眠時の夢は、アセチルコリン作動性ニューロンの活発化によるPGO波が発生している状態。
しかしそれは「無意識」の領域だ。

覚醒状態(意識的に自分をコントロールできる状態)において、
薬物なしに脳の状態をそのレベルまで誘導するのは困難である。

私の場合、意識と無意識の中間において、脳内で極めて明瞭な音楽を聴いたことがある。
(もちろん、薬物は一切使用していない)
平常の覚醒時に音楽を聴いている時よりも、一音一音を正確に分解して聞き分けることができ、
意識的に更に深く展開させ、作曲することも出来た。
(だが私には絶対音感が無いので、その音楽を記録する事が出来なかった)
聴こえた音楽は全くのスキがなく、完璧に構成されていた。
平常の意識下で自分がその様な音楽を作曲する事は不可能に近い。
まさにそれはオートマティスムで「偶然」としかいいようが無く、完全に自己を出し抜いている。


音楽に限らず、映像が可視化されることもある。
可視化された、網膜的ではない(幻覚)映像は、
精巧で美しく、どこか冷ややかであり、そして複雑だった。
それらのイメージは自分の想像力を遥かに越えていて、
自分には未知でありながら、脳によって生み出されたイメージである。

モーツァルトはその能力(明確なイメージ想起)をある程度、
自在に呼び起こすことが出来たのではないだろうか。
もしもそんな能力を身につけたら私でも四六時中、五線譜に音符を書き続けるだろう。

自由自在ではないが私も時々、脳内で音楽を可聴的に聴き、映像を可視的に見ることがある。
(単に「幻聴」や「幻覚」と片付けるには、あまりにも惜しい)
そして、それらのイメージは私の芸術欲動の源泉となっている。